[NO "Futon", NO LIFE.]

小川楓太のはてなブログ

最近のアニメって。

最近のアニメってなんか枠を壊すことが枠になってきてるような気がするんだよな。

今朝「とある科学の超電磁砲S」第5話見たのだが、一話でうまく御坂妹登場からやられるまでまとめたなと。しかし、最後に足までもがれて死ぬとは思わなかったな…。

f:id:ogawa0071:20130512003120j:plain

f:id:ogawa0071:20130512003124j:plain

その他シーンは「やらおん!」へ。

 

さて、死んだ後エンディング曲なしで終了したんだけど、これがひとつの演出になっちゃってるような気がするのですよ。さらに、「エンディングなしで終わったんだから衝撃的な話でした」ってのを強要してる気がする。

釈然としないのです。

まどマギ以来「え!? ここで死ぬの?」ってシーンを作ればOKの風潮が強いように感じる。確かに「マミった」という言葉が出来るぐらい流行ったというか話題性を確保できることは確かだろう。だけど「死ぬ」ことの重みが薄れている気がする。

逆に「不思議の海のナディア」は「死」の重みがうまく表現できていると思う。じつはナディアを見たのはこの間やっていた再放送が初めてで、先日やっと見終わった。

第15話「ノーチラス最大の危機」ではモブキャラレベル(かと思わせるような演出)のフェイトというノーチラス号の乗組員が死ぬ。最初自己犠牲を買って出た彼がガスで死ぬ時に「いやだ〜! 俺はまだ死にたくない!」と叫ぶのが印象的だ。

f:id:ogawa0071:20130512005220j:plain

これがアニメで死を描くってことだなと感じた。

今のアニメはまだまだかつてのものに学ぶことがあるな。とりあえず、「エンディングなしだから衝撃的だったって感じて下さい」って姿勢には釈然としませんでした。

 

(あと、なんでもいいから早く食蜂さん出せよ)

f:id:ogawa0071:20130512005716j:plain

f:id:ogawa0071:20130512005720j:plain